責任論

今の自分にはこれを形にするのは早い気がする。
でも書いてみたくなったから不完全な形でも書いてみるんだ。
これは、なにかの学術書を読んで書いてるわけでなく、
僕の生きてきた短くも、長い19年のうちに考えた
『責任』
というモノへの挑戦状です。

  • 人は一つの出来事に対して『責任』をとることができるだろうか。


どんなにくだらないことでも、人はその行動や言動で
周りの世界や人そのももを変化させてしまう。
その事に責任を取るということはどういうことか。
『責任』をとるということは
①「変えてしまったものを戻す」
という責任の取り方と
②「変えてしまったものを似たような意味のモノに変える」
そして最後に
③「それを背負って逃げずに生きていく」
の3パターンが基本的には存在すると思う。(例外はある)
一番目の『責任』の取り方は理想的だけど、
ほとんど不可能な理想論的『責任』追求だと思う。

  • 事例① モノを壊してしまう

一番目の理想的なものを『責任』のとり方だとすると
壊したモノを壊す以前の状態に完全に戻すことが求められる。
物理的意味(そのモノだけを見て判断する)
では単純なモノならば可能かもしれないが、
厳密に言えば大抵のモノは完璧に戻すことなんて不可能である。
多少の角度の違いや傷、そういったものまで直すことは困難であるし
何より修理したら修理した痕跡が必ずつく。
さらにモノが壊れることで発生した影響、
たとえば壊されたことを悲しむ気持ちや怒る気持ちを
感じてしまった人間の自己形成の結果、
壊されたことで発生した損害や利益。
こういったモノまでも元の形に戻すことなんていうのは
ほとんど不可能である、故に①は理想論的『責任』追求なんだ。
誰にも叶えられない、誰にもこの『責任』は取れない。
 次に二番目の方法で『責任』を追求しようとしてみる。
これは割りと簡単だ、(①と比べてではあるが)
修理する、似たような製品を買ってくる。
人間に対しては謝り、かつての人間関係と似た関係を形成する。
利益や損害に関しては金銭的に保証する。
これがこの世界で主に取られている現実的『責任』追求だ
①と②の違いは『責任』の範囲の差だと思う。
①では『責任』を重く取らせようとするあまり、
過剰な『責任』追求を人に課してしまっている。
②では可能な範囲での『責任』追求に留め、
無意味な『責任』追及を課すのを止めた代わりに、
モノを壊された人にもそれなりの不利益を要求する。