生まれてきたこと。

@philoso-daな日々のchakoさんの昨日の記事の

これを読んで思ったことと自分の考えを少し。


「誰のおかげでうまれてこれたと思ってるんだ。」


「生んでやった恩を忘れたのか。」


「生んでごめんね」


生まれてきたことを幸せに思うか、不幸に思うかは
生まれてきたその本人の主観で判断されます。
生まれてきたことを不幸に思い、思い悩む人。
生まれてきたことを幸せに思い、喜ぶ人。
色々な人がいるとは思いますが、親が子どもに
上のような台詞を言うのは変だなぁと思います。


親には自分の行為(子どもを作る)ことによって
発生する事態が(子どもの不幸せ)その子の人生の中に
その可能性が発生するかもしれないことを簡単に予想できました。
それでも生むことを決断したの親の意思であり、
その責任は親のものです。


僕は生まれてきて嬉しいです、
親の決断に感謝しています、いいませんけど。
でもここだけの話、恨んでいたこともありました。


生まれてきたことに絶望したことの無い人なんて
20年も生きればそうそういないように思います。
部分的には恨もうが、最終的に生まれてきたことで
喜びを得られるような環境に到達できたなら、
その人の一生は幸せなものになるでしょうし、
親の選択も大いに良い影響を子どもに与えたのでしょう。


逆に生まれてきたことを最終的に絶望した時、
親の決断が子どもには良い影響を及ぼさなかったのでしょう。
親にとっては悲しいことですし、もちろん本人にとっても凄く
悲しいことなのでしょうけれど、親が最低限するべき責任を
果たしていたなら子ども以外の誰も親の決断を責めることが
できないのではないかと思いますし、
子どもにしたって責めても無駄だと思います。


完璧な責任というのはどこの誰にも取れないことなのでしょう。
この場合の完璧な責任というのはその決断が影響も含めて
無かったことにすること、
つまり親が子どもを生んだ責任を無かったことにするには。


「子どもを生まなかった状態に戻すこと。」


生まれてしまった以上、そんなことは不可能です。
様々な人やものとの関わりでその人が生まれてしまったことは
多くのことやものに影響を与えて、それはすでに復元不可能なのです。
この責任を親に求めるのはあまりにも酷ですし、誰にもこんな責任は
取れません。(それこそ神様くらいにしか)


責任と一口に言ってもとらなければならない責任ととらなくても良い
責任があると僕はその方が嬉しいし、楽なのでそう考えてるんですけど、
(実現不可能な責任を押し付けても不毛だから。)
親が子どもを生んだ時にとらなければいけないのは
「子どもが後悔した時に生まれてない状態に戻す」という
実現不可能なとらなくても良い責任ではなく、
「子どもは幸せになれるように色々な形で援助する」
という責任だけでいいのだと思いますし、
それ以上も止めても実現不可能で実に不毛です、はい。
できないものはできないのですから。
子どもが感情的になって親を責めるのも解るんですけど
どうしよも無いことを言って親を困らせるだけなんて
なかなかに自分勝手じゃないですか。


当然、考えた末に子どもが最終的に生きることを止めることを
選んでも親にはその子どもを責める権利なんてありません。
親には自分が子どもを作って、生んだ責任を自覚して欲しいのです。
僕も将来子どもを作ると決断した時には自覚して子どもに
接していきたいです、なぜならこれが子どもを生んだ親が
子どもに対してしてあげれる最大限の援助だと思うからなのです。


生まれてきたことに全ての人が感謝できたら
そんなに素晴らしいことは無いと僕は思うのですけど、
残念ながら現実はそうはなってないらしいです。
1人でも多くの人が生まれてきたことに感謝して
最後を迎えれるような世界になったら素敵ですね。


子どもの幸せを援助する親、そして子どもは自分の幸せをつかむ。
親の決断が影響を与えた子どもに認められたなら
そんな親はきっと幸せな気持ちでしょうね。


「生まれてきたことに感謝するぐらい。」