学歴主義とコンプレックス。

  • 本質回帰な学歴主義。

僕は「学歴」を今までは「学校の名前や学部の名前」として定義して捉えてきました。
しかし、「学歴」という文字から素直に言葉の意味を定義したら、
こんな狭義な定義におさめる方がおかしなことだと、最近思い直しました。


では学歴をどう定義するか、

自分が学んできた事柄の意義や意味

と僕は新たに定義します。


中学、高校、大学生活を通じて何を学び、何を手に入れたか。
学校の名前なんかじゃなくてそれこそが人を見るうえで大事な「学歴」なんですよね。
この「学」にはいわゆる学校の勉強だけに留まらず、絵を描くことや
楽器を演奏すること、漫才のネタを考えることなどの様々な広い意味での
「勉強」を指すと思ってもらえたらイメージしやすいですよね。


例えば同じ大学に入ったとしても個々人でやることはバラバラです。
黙々と知識を吸収する人、ひたすらにコンパにあけくれる人、
新しい何かを生み出そうと努力する人。
多様な人が存在する学校で、それらの人々のやってきたことを
大学の名前において判断しようなんて愚行です。




もちろん、各学校によって特色が色々あってその環境は違いますし、
その意味での学校の区別化は必要な合理的差別であると思います。*1
それでも、環境が全てを決めるのではなく、学生自身がどんな「影響」を
手に入れることを選ぶかが決めれる以上、そのことも念頭において
個別の人を見る努力が大切になってくるのだと思います。


だからこそ、是非「どこの大学」に行ったかより、「何を勉強したのか」を
気にする人に僕はなりたいし、こっちの方がよりその人を理解できると思うんです。
こう定義すると学歴主義にも大切な意味があるように思えるんです。




  • 学歴コンプレックス。

正直に言って学歴コンプレックスを僕も抱いていた時期がありました。

「いい大学にいって××に僕を認めさせるんだ。」

今考えると赤面してしまうんですけど、(苦笑)
やたら難しい漢字や熟語や雑学を覚えて知ったかぶりもしました。

俺はこんなに知ってて頭いいんだぜ、お前らとは違うんだ

本当に酷い短絡思考でした。


そんな当時の僕に問い直したい。
人の偉さや凄さや良さは知識の量で決まるのか、
知らない事がそこまで恥ずかしいことなのか、知ってることがそこまで偉いことなのか。


読んでくれた方は是非この問いに答えてみてください。


昔の僕に自問しても答えは出ないので、今の僕が自答します。


人の偉さや凄さや良さは知識の量で決まるはずが無い。
知識を持っていることはそれ自体が凄くいいことではあるけど、
それを活かせて始めて意味があることだし、
それでも他の誰かより、偉くなるわけじゃない。
所詮偉い偉く無いなんて概念はかつての身分制度や暴力が生み出した物であって
本質的な「偉さ」なんて物は毛虫も猿も人間も大差ないんです。


そして知らない事が恥ずかしいことなのか?
確かに一般的に知ってて「当然」とされる知識を知らないと、
恥ずかしい思いをしますよね。
でもそれが本当に恥ずかしいですか?


知らなくて困らなかったから知らなかった、
そして知らなきゃいけなくなったから知った。
この時期が人とずれることがそんなに恥ずかしいことですか?
恥ずかしさを感じるくらいなら勉強して知ればいいだけじゃないですか。
そして必要な時に勉強したことを何も恥じることは無いわけです。


もちろん命に関わる大事な知識を知らないことは危険ですし、
学ぶことは必要でしょう、でもそこには偉さなんて概念が出てくる余地はありません。




きつく聞こえるかもしれませんが、
学歴コンプレックスを感じている人はもう一度考えて見てくれませんか、
自分自身に変な制約をかけていませんか?


大学の勉強なんてその気になったら本を買って、色々調べながら
勉強するだけで大抵のことは解ります。
本当にこれらの知識を吸収して使いこなせる人になれば、
企業の人事担当の人の目だって節穴じゃないんですから気に留めるでしょう。*2
これは企業だけでなく、必要な知識が必要な時にあれば学校の名前は要りませんよね。*3
頑張りましょう、頑張ります。

*1:調理師の専門学校を出た人とトリマーの専門学校を出た人だったら料理店の主人は前者を選ぶ、みたいなことです。

*2:企業ってのは突き詰めたら営利を追求する団体で、その裏には厳しい合理主義があります。基本ルールを厳守しても優秀な企業なら狭義の「学歴」なんか気にせず、必要な人材は必要なだけきちんと例外として採用するのです。

*3:必要な職種も例外としてあり。