マスコミのルーツ
もともと武力クーデターによってその地位を奪われた江戸幕府の役人どもや、
先の見えない武士の現政権に対する不満や恨みを批判として行いだしたのが
マスコミのルーツにはある。
故に政権や権力に対して懐疑的に報道したり、攻撃するのはかまわないけど
その中で嘘や著しく不公正な報道をしたり、その新聞自体が欺瞞にあふれたことをしていることに
対して内部で自浄効果が無いことは忘れずに見る必要がある。
例えば押し紙問題や、配送段階での販売店に対するいじめや販売店の犯罪。
例えば派遣社員批判をしながら派遣社員を山ほど使う新聞社の体質。
マスコミは政治家の罪の部分だけを取り上げ、自分達の功の部分だけ取り上げる物なんです。
故にマスコミってのはそんなたいそうな信頼をされるに値する物ではないと評価しています。
コピペ
1年未満で終わった福田内閣の功績
衆参捻れてる中、テロとの戦いを継続させる新テロ特措法を成立させる
C型肝炎問題を解決
民主党に党首会談を持ちかけて日本の戦後政治の癌小沢一郎の求心力を低下させるのに成功
負けたら辞職確定の岩国市市長選挙で僅差ながらも勝利
国民の目線に立った消費者省の設立に尽力
経団連に給料上げろとせまる
道路族の抵抗に負けず道路財源の一般財源化を閣議決定、さらには霞ヶ関の官僚の抵抗に負けず公務員改革を推進
北京五輪の皇室出席という中国からのムチャな要求をスルー
食糧問題・燃料問題に取組む
日本の国連常任理事国入りのためのアフリカ外交を積極的に行う
竹島は日本の領土であると学習指導要領の解説書に明記することを決定
メモ
奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、
驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。
どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。
彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、
奴隷になっても決してその精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。
その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、
あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を 血祭りにあげた。現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの 唯一の誇りを見い出しさえしている。(by リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて)
たった一人の人に見て欲しい−教育の賜物−
①年上は目上、年下は目下である
②人には優しくしなければならない
③愚痴は言ってはいけない
④長男であるから責任感をもって行動しなくてはいけない
⑤真面目でなければいけない
全部くだらない事だとは言いませんし、思いません。
それでも、これらのことに囚われすぎて、こだわり過ぎる事で不幸になっているなら
その原則を多少変化させてあげる融通さも教育するべきだったんです。
①大切にすべきは歳の数ではなく、他の人に対する敬意であるし意見を取り入れる度量です。
②人に優しくするといっても手段と結果を考え、時に厳しくする優しさもあるんです。甘いだけが脳じゃない。
③愚痴はダメでも問題を整頓してより過ごしやすくする為の表現や文章化はするべきなんです。
ストレス発散の為に何か別のことをしても問題は解決せず放置されたままで、ストレスは残るのです。
④長男が一家の家長としてその構成員を責任もって管理する家制度は既にありません。
今のこの国にあるのはお互いの家族が支えあっていく個人尊重の家制度です。
権利は与えられないのに義務だけ背負う長男がいたら、だれがあなたがそれを放棄する事を責めるでしょうか。
⑤真面目でなければいけないというのはあくまで原則論で、故人はこうも言っています。
『正直者は馬鹿を見る』
真面目であるとは正直であるというだけなのでしょうか?
僕は真面目であるということは正直さだけではとても足りない概念であると思っています。
人のことを知ろうとし、人の話を聞き、人に誠意をもって接し、人に過度な期待をかけず、
人が他に害を及ぼそうとする時には諌め、・・・・etc
一番大切なのが真面目であることが、誰にとっていいころなのかも考えて欲しいところです。
メモ
中世以前の社会の形態は大抵の国においては君主制でした。
国家というのは民衆を管理し、国家の元首(つまり国王や王族、広義では貴族)の為の
国家という形態であり、民衆から見たときの国家は不要な干渉をしてくる物でした。
これを『国家の自由の為の保障としての国民』としておきましょう。しかし、一部の富裕商人や思想的市民の登場によって
国民の為の国家という物が提唱されるようになりました。
その当時の人々が国家に求めたのは、『国家からの自由の保障』でした。
フランス革命を象徴とする変革により、これは実現していったのです。さて、国家からの自由を得た国民と国はどうなったか?
国家からの自由にはなったものの、今までは国からの搾取であったのが、
その国民同士の中での資本を背景にした搾取が始まったのです。
持たざる者は持つ者に労働力を提供し、それを国家は規制しない。
結局多くの持たざる国民は以前と変わらぬ不自由な暮らしを送りました。
これを『資本主義』『民主主義』といいます。そこで唱えられたのが『国家による自由』。
不公正を是正し、より多くの人が自由な暮らしができるように、
国家権力の力を強めてこれを正していくこと。
この第三の希望によって生まれたのが『共産主義』
故に、社会システムとしての『共産主義』は第二の希望である社会システムとしての
『資本主義』に対する不信から生まれてきた物なんです。資本主義社会である以上、資本の有無によって社会に対して提供できる価値が
固定してしまい、より多く持つ者が少ない者から搾取し、より富める。
この階級こそが諸悪の根源であり、これを万人が主体となって所有する物とすることで
階級闘争を無くし、『民主主義』の適正化を計ろうとしたのです。
その方法論としてマルクスは低階級の者による政治権力の奪取による変革を訴えました。
階級闘争が悪だったのか。
価値観の強制と、階級の固定化こそが問題だったんじゃないか。
努力と運に応じて与えられる権利と不努力によって甘受する権利が同等であっていいのか。
人は生かすことだけが正義なのか、死ぬべきである正義もあるだろう。
階級闘争の適正性の担保、階級の努力による流動、価値観の自由。
人が善くある為には、これらの実現にこそ価値があると思います。自己の自信の根拠が階級でしかないならそれは虚勢だと思うから。
信仰と依存を取り違えた者