メモ
中世以前の社会の形態は大抵の国においては君主制でした。
国家というのは民衆を管理し、国家の元首(つまり国王や王族、広義では貴族)の為の
国家という形態であり、民衆から見たときの国家は不要な干渉をしてくる物でした。
これを『国家の自由の為の保障としての国民』としておきましょう。しかし、一部の富裕商人や思想的市民の登場によって
国民の為の国家という物が提唱されるようになりました。
その当時の人々が国家に求めたのは、『国家からの自由の保障』でした。
フランス革命を象徴とする変革により、これは実現していったのです。さて、国家からの自由を得た国民と国はどうなったか?
国家からの自由にはなったものの、今までは国からの搾取であったのが、
その国民同士の中での資本を背景にした搾取が始まったのです。
持たざる者は持つ者に労働力を提供し、それを国家は規制しない。
結局多くの持たざる国民は以前と変わらぬ不自由な暮らしを送りました。
これを『資本主義』『民主主義』といいます。そこで唱えられたのが『国家による自由』。
不公正を是正し、より多くの人が自由な暮らしができるように、
国家権力の力を強めてこれを正していくこと。
この第三の希望によって生まれたのが『共産主義』
故に、社会システムとしての『共産主義』は第二の希望である社会システムとしての
『資本主義』に対する不信から生まれてきた物なんです。資本主義社会である以上、資本の有無によって社会に対して提供できる価値が
固定してしまい、より多く持つ者が少ない者から搾取し、より富める。
この階級こそが諸悪の根源であり、これを万人が主体となって所有する物とすることで
階級闘争を無くし、『民主主義』の適正化を計ろうとしたのです。
その方法論としてマルクスは低階級の者による政治権力の奪取による変革を訴えました。
階級闘争が悪だったのか。
価値観の強制と、階級の固定化こそが問題だったんじゃないか。
努力と運に応じて与えられる権利と不努力によって甘受する権利が同等であっていいのか。
人は生かすことだけが正義なのか、死ぬべきである正義もあるだろう。
階級闘争の適正性の担保、階級の努力による流動、価値観の自由。
人が善くある為には、これらの実現にこそ価値があると思います。自己の自信の根拠が階級でしかないならそれは虚勢だと思うから。
信仰と依存を取り違えた者